世界切手国めぐり
ジンバブエ

●…“石の家”の国 南アフリカ共和国の北隣にあるジンバブエは、1980年に英国から独立した新興国です。国名はこの国が世界に誇る巨大な石造建築物“ジンバブエ”に因んだもの。土地の言葉で“石の家”を意味します。その一部は切手でも何回か紹介されたので御存知の方も多いでしょう。 1100万の国民の約7割は、バンツー系黒人のショナ族で、2割ほどは同系のヌデベレ族。ともに半数以上が自給的な農業を営んでいます。国土の大半は海抜1000m前後、丁度、軽井沢ほどの高原地帯で、熱帯にありながら湿度も低く、大変さわやかです。 ●…ローデシア−セシル・ローズの国 このさわやかな高原は、ショナ族の国でしたが、帝国主義時代になると、英国が目をつけます。植民地の行政官セシル・ローズは、やがて英国皇帝から開拓の特許を得て、北ローデシア、現在のザンビアを含んだ広大な地域を“英領南アフリカ会社”として、自らの名前をとって、この地を《ローデシア》と名付けました。1895年のことです。 英本国などから入植した白人達は、高原に広大なタバコや茶のプランテーションをひらくことに成功し、豊かな農場経営を進めていきます。こうしたプランテーションの農作物は、切手でも度々紹介されています。しかし、黒人たちは狭い土地にしがみつくか、白人の農場で働くしかありませんでした。 さらに、この土地には、北部のザンビアからのびる豊かな銅の鉱脈のほか、ニッケルや金、クロムなどの鉱産物も豊富です。かつての南アフリカ共和国と同様、白人優位の社会の中で、これらの鉱山も次々と開発されていきました。こうした白人入植者たちは、英本国に対して自治権を要求しましたが、これに応えて、ローデシア南部は1923年に《南ローデシア》として或る程度の自治が認められます。 さまざまな社会的差別を受ける白人優位の社会の中で、黒人たちの不満は次第につのっていきます。とくに第二次大戦後の民族運動の高まりの中で、反白人闘争も過激なものになっていきました。 こうした黒人の民族運動を牽制する目的もあって、北ローデシアやニヤサランドと連邦を結成したこともありましたが、1963年になると、北ローデシアはザンビアに、ニヤサランドはマラウィーとして、それぞれ分離独立してしまいます。 ●…白人国家から黒人主導の国家へ 第二次大戦後の黒人を中心とした民族運動は次第に高まり、とくに選挙権の獲得闘争が強まりますが、多くの白人たちは、それを認めようとしませんでした。もし、選挙権を平等にすれば、人口の僅か5%に過ぎない白人は、たちまち政治の世界でも少数派となり、政権は黒人の手に移り、折角開拓した広大な農園も失うと考えたからです。 連邦が解体した際、残された南ローデシアも“独立”しようとしましたが、白人を中心とした政権に対し、英国政府は容易に独立を許容しません。そのため、当時の南ア共和国と同じ様に、黒人に対する人種差別を残したまま、1965年にローデシアとして一方的に主権を宣言しました。この時代の切手の国名表記は、単に《RHODESIA》となっています。 黒人たちは、もちろんこれに反発。やがて各地でゲリラ闘争が展開します。一方、国連は経済制裁を発動します。ゲリラ対策の軍事費が白人たちの生活を圧迫。頑迷なスミス白人政権も70年代末には遂に屈服。'79年の新選挙法で、アフリカ人政党は圧勝し、'80年には念願の黒人を中心とした新国家ジンバブエが誕生しました。 しかし、白人入植者や様々な技術者が次々と国を去ったことや、経済運営の不馴れなどもあって、折角の政治的独立も、人々の生活向上には必ずしも十分成果をあげていないようです。 ●…切手の変遷 ジンバブエの一番切手は、独立とともに発行されました。その図柄は、何故かローデシア時代に発行された普通切手の国名だけを代えただけのものでした。 しかし、その後は国づくりの様子や珍しい動植物を描いたものが中心で、発行政策も健全です。 この国の切手の収集は、その複雑な歴史を反映した、独立以前のものからはじめるのが遙かに楽しいはずです。 最初の切手は、1890年に発行された《BRITISH SOUTH AFRICA COMPANY》の表記のあるもの。これには会社の紋章が描かれています。 1923年には、ローデシアが南北に分割され、英領の直轄植民地となり、表記も《SOUTHERN RHODESIA》となります。ロイヤル・ファミリーとともに、1940年には、セシル・ローズの肖像も登場しています。 その後、1953年には南北ローデシアとニヤサランドで連邦が形成され、切手の表記は《RHODESIA&NYA-SALAND》となり、一番切手は翌年発行されました。連邦解体後は《RHO-DESIA》となり、独立をめぐる英国との対立が激しくなる1967年以後は、エリザベス女王の肖像も消えてしまいました。 《中央アフリカ》の切手 一九五三年にアフリカ人の民族運動を牽制する目的もあって、南北ローデシアとニヤサランドは結合して、自治領の連邦を形成したが、日本ではなぜかこの国を《中央アフリカ連邦》と呼んでいる。本来は切手の表記にあるように、《ローデシア・ニヤサランド連邦》とするのが正しい。 実は、《中央アフリカ》は現存する共和国でもあるので、いささかまぎらわしい。ここは、かつて仏領赤道アフリカ植民地の一部で、《ウバンギ・シャリ》と呼ばれた地域である。ウバンギ・シャリの両大河に挟まれたことに由来する地名であろう。 その第三代大統領ボカサ氏は、かねがねナポレオンに心酔していたが、遂に自らも皇帝たらんとして、ナポレオンの即位式を模した豪華な戴冠式を大金を費やして挙行。中央アフリカ帝国の初代皇帝として即位した。 しかし、この国はアフリカの最貧国のひとつである。国威発揚のための国費の乱費は、多くの国民はもとより、援助を与えている諸外国のヒンシュクをかい、在位2年ほどで、クーデターにより帝位を追われ、再び共和国となったのである。 |
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普通切手/鳥10種 | ||||
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